絵師の河口邦山も、私も残念ながら「大津」の出身ではありません。
展示会でお客さまから、「何故、神奈川で『大津絵』なのですか?」という
ご質問を受けます。
絵師の河口邦山は、岩手県にある、鬼を専門に扱った美術館に作品を展示したときに
「この鬼の絵は大津絵のようだ」と言われたことから、大津絵に興味を持ち、
次第にその世界に惹かれていきました。
いろんな絵を描いていますが、
晩年はずっと『大津絵』を描き、大津絵を伝えていきたいと願っています。
では、私にとって「大津絵」はどういう存在なのか考えました。
東京・駒場に日本民藝館があります。
日本民藝館は、民芸(民衆的工芸)運動の開拓者であり、宗教哲学者でもあった
柳宗悦が同志とともに民芸運動の本拠地として設立しました。
ここには、日本や外国から収集された工芸が1万7千点以上もあり、多くの大津絵も
収蔵しています。
以前情報収集のため、大津を訪問した際に、大津絵師の松山先生から、
大津絵のことを知りたければ日本民藝館に行きなさい。
そして柳宗悦について勉強しなさい。
と助言していただきました。
その後、日本民藝館でたくさんの江戸時代の大津絵をみた帰りに、本館の向い側にある
柳宗悦旧宅(西館)を訪れました。
2階の部屋には柳宗悦が書いた大津絵に関する原稿がたくさんありました。
原稿用紙に万年筆で書かれた文章は温もりにあふれ、
民芸の美を探究した柳宗悦の強い想いが時代を超えて伝わってきました。
しかし、無名の人が作る道具や工芸品の中に美しさを見出した柳宗悦にとってみれば
大津絵は大津絵のまま 変わらないこと が理想のような気がいたしました。
今の私は、江戸時代の大津絵をアレンジして現代に蘇らせようとしています。
私がやろうとしていることは、正しいのだろうか?と悩みました。
ある日のことです。 偶然、1983年発行の季刊「銀花」の中に柳宗悦の名前を見つけました。
日本でも有名なプロダクトデザイナーであり、柳宗悦の長男・柳宗理が
父・柳宗悦について書いた文章でした。
「過去及び現在は未来のために在る」(季刊「銀花」54号より)
柳宗理は、父、柳宗悦が残した民藝論や理想を、なんらかの形で未来に活用し、
未来に引き継ぎ、新しい健康的なものを生まなければならないと書いてありました。
この文章を読んだときに、
私には、私にしかしかできない使命があるのだと思いました。
大津絵を多くの人に知っていただき、
そして河口邦山の絵をもっと多くの人に見ていただきたい。
今自分がそう思うのなら、時代も地域もはなれているけれども、
大津絵を大切に思うひとりとして「大津屋」の名前を大切に使わせていただこうと思いました。
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